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主题:【文摘】日本战国武将的临终遗言――很有些禅味 -- 机会主义者

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  • 家园 【文摘】日本战国武将的临终遗言――很有些禅味

    都是日文汉字,我就不翻译了,估计大家也能看的懂。不过我怀疑,那帮武将临死前哪来的闲情雅致吟颂这些和歌,包括明智光秀这样的叛将。

    赤松柳村(あかまつ よしむら)   ? ~1521

    立ちよりて影もうつさじ流れては 浮世を出る谷川の水

    ※これは??密には辞世の句ではないが、播磨室津に幽檩されていた彼は、死の直前にこの歌を吟じたことから、辞世の句代わりとみなした。

    明智光秀(あけち みつひで) 1528~1582

    ??逆?o二樵 大道?匦脑础∥迨?五年?簟∫?来?⒁辉?

    朝?}柳景(あさくら よしかげ) 1533~1573

    七??八倒 四十年中 ?o他?o自 四大本空

    足利柳蔌(あしかが よしてる) 1536~1563

    五月雨はつゆかなみだか?r?B わが名をあげよ??の上まで

    尼子?倬猫あまご かつひさ)  1553~1578

    都渡??断す千差の道 南北?|西本噙に哌す

    天野隆良(あまの たかよし)    ? ~1551

    不来不去 ?o死?o生 今日??晴れて 峰钷月明らかなり

    安国寺?{??(あんこくじ えけい)  ? ~1600

    清锾?B明月 明月?B清锾

    伊香僖隆正(いかが たかまさ)   ? ~1555

    思いきや千年をかけし山松の 朽ちぬるときを君に??んとは

    石川五右徐樵(いしかわ ごえもん) ? ~1594

    石川や浜の真砂子はつくるとも 世に盗人の肺はつくまじ

    石田三成(いしだ みつなり)  1560~1600

    筑摩江や芦殓に灯すかがり火と ともに消えゆく我が身なりけり

    今川氏真(いまがわ うじざね) 1538~1614

    なかなかに世をも人をも恨むまじ ?rにあはぬを身の科にして

    悔しともうら山し共思はねど 我世にかはる世の姿かな

    上杉拄信(うえすぎ けんしん) 1530~1578

    ?O?Sも地?zもともに有明の 月ぞこころにかかる月かな

    ?O?Sも地?zも先はありあけの 月の心にかかるくもなし

    四十九年一?簸??选∫黄??鸦ㄒ话?の酒

    四十九年?糁嗅E 一生?岩?一??酒

    宇喜多秀家(うきた ひでいえ) 1572~1655

    み菩诉の肺を植えけんこの寺へ みどりの松の一あらぬ限りは

    大内晴持(おおうち はるもち) 1524~1543

    大内を出にし??の身なれども 出??の浦の藻屑とぞなる

    大内柳隆(おおうち よしたか) 1507~1551

    さかならぬきみのうき名を留めをき 世にうらめしき春のうら波

    ??人も??る╂人も衷共に 如露亦如???曜魅缡怯Q

    大内柳樘(おおうち よしなが)   ? ~1557

    赵ふとてなにか恨みん?rきては ?工韦郅?に花もこそ散れ

    大?氤卧篓おおしま すみつき)   ? ~1565

    澄む月の?氦冯?には胩るとも 己が光は照らさ╃らめや

    大?胝瘴莰おおしま てるいえ)   ? ~1565

    ?⒊酩幛坞?胩れとは思へ共 惜しむ??ひそ在明の月

    太田隆通(おおた たかみち)    ? ~1551

    秋锾の至り至らぬ山??に 残る剪叁も散らずやはある

    大谷吉纠(おおたに よしつぐ)   ? ~1600

    契りあれば六つの衢に待てしばし 咦れ先だつことはありとも

    ??部隆匚(おかべ たかとよ)    ? ~1551

    白露の消えゆく秋の名残とや しばしは残る末の松锾

    ??谷隆秀(おかや たかひで)    ? ~1551

    ?r有りて自から至り?r有りて又??る 清锾水を度り明月天に在り

    ??田信孝(おだ のぶたか)   1558~1583

    むかしより主をうつみの野殓なれば むくいを待てや羽柴筑前

    小幡柳?g(おばた よしざね)    ? ~1551

    宝??を?兹搐筏泼?弓を放下す 只斯の景のみ有り一??の清锾

    垣?K房清(かきなみ ふさきよ)   ? ~1555

    ????渭¥蛘?ずること莫かれ 人我???rの情一物不生の地 山寒うして海水清し

    蒲生氏噙(がもう うじさと)  1556~1595

    限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山かぜ

    蒲生大膳(がもう だいぜん)    ? ~1600

    まてしばし我ぞ?hりて三??川 浅み深みも君に知らせん

    吉川秸家(きっかわ つねいえ) 1547~1581

    武夫の取り?护丐郡腓鞴? かへるやもとの栖なるらん

    ?川隆像(くろかわ たかかた)   ? ~1551

    ?粢嗍??簟】摘q是空 不来不去 端的の中に在り

    ?田孝高(くろだ よしたか)  1546~1604

    おもひおく言の叁なくてつひに行く 道はまよはじなるにまかせて

    ?忍俚廊?(さいとう どうさん) 1494~1556

    ?韦皮皮坤摔长问坤韦郅?はなき物を いづくかつひのすみかなりけむ

    ?忍倭x??(さいとう よしたつ) 1527~1561

    三十鹞?r 守罪人天 刹那一句 佛祖不??

    相良柳??(さがら よしひ)   1544~1581

    ※これは柳??の辞世ではないが、彼の死を悼んだ犬童铐安が墓前に献じた句である。

    思いきやともに消ゆべき露の身の 世にあり??に??えむものとは

    佐久殓盛政(さくま もりまさ) 1554~1583

    世の中をめぐりもはてぬ小??は 火宅のかどをいづるなりけり

    佐々成政(さっさ なりまさ)  1539~1588

    この??の厄妄想を入れ置きし ??愦?今破るなり

    柴田?偌舀しばた かついえ)  1522~1583

    夏の夜の?袈筏悉?なきあとの名を ??井にあげよ山ほととぎす

    ?u津?r久(しまづ としひさ)  1537~1592

    晴蓑めかたまのありかを人とは々 いさ白??の上もしられず

    ?u津柳弘(しまづ よしひろ)  1535~1619

    春秋の花も剪叁もとどまらず 人も空しき轹路なりけり

    清水宗治(しみず むねはる)  1537~1582

    浮き世をば今こそ渡れもののふの 名を高松の苔に残して

    少?r政儋(しょうに まさすけ) 1441~1497

    花ぞ散る思へば锾の科ならず ?r至りぬる春の夕暮

    善しやただみだせる人のとがにあらじ ?r至れると思ひけるかな

    陶 晴亵(すえ はるかた)   1521~1555

    なにを惜しみなにを恨まんもとよりも このありさまの定まれる身に

    ??蕴铐重(すわ よりしげ)   1516~1542

    おのづから枯れ果てにけり草の叁の 主あらばこそ又も劫ばめ

    高?蚪B擗たかはし じょううん)1548~1586

    流れての末の世哞く埋もれぬ 名をや岩屋の苔の下水

    かばねをば岩屋の苔に埋みてぞ ??ゐの空に名をと╃むべき

    武田?兕m(たけだ かつより)  1546~1582

    ?Vなる月もほのかに??かすみ 晴れてゆくへの西の山の端

    武田信玄(たけだ しんげん)  1521~1573

    大ていは地に任せて肌骨好し 剪粉を?Tらず自ら锾流

    立花道雪(たちばな どうせつ) 1513~1585

    ??方に心ひくなよ匚国の ??の弓末に世はなりぬとも

    伊哌政宗(だて まさむね)   1567~1636

    ?窑辘胜?心の月を先立てて 浮世の??を照らしてぞ行く

    筒井???c(つつい じゅんけい) 1549~1584

    根は枯れし筒井の水の清ければ 心の杉の叁はうかぶとも

    筒井定?c(つつい じょうけい)   ? ~1615

    世の人のくちはに?窑肼钉紊恧巍∠?えては何の咎もあらじな

    匚臣秀次(とよとみ ひでつぐ) 1568~1595

    月花を心のままに??つくしぬ なにか浮き世に思ひ残さむ

    匚臣秀吉(とよとみ ひでよし) 1536~1598

    つゆとをちつゆときへにしわかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ

    露とちり膻と消える世の中に 何とのこれる心なるらん

    ?B居景近(とりい かげちか)  ? ~1573

    先立ちし小茹が本の秋锾や 残る小枝の露赵うらん

    樘野?I盛(ながの なりもり)  1546~1563

    春锾に梅も?@も散りはてて 名のみ残れる箕??の山里

    中村文荷?权なかむら ぶんかさい) ? ~1583

    契あれや?訾筏?道に伴いて 後の世までも仕へ仕へむ

    新见忠元(にいろ ただもと)  1526~1610

    さぞな春つれなき老とおもうらん ことしも花のあとに残れば

    二条良匚(にじょう よしとよ) 1536~1551

    秋锾や真葛原に吹き荒れて 恨みぞ残る??の上まで

    祢宜右信(ねぎ みぎのぶ)     ? ~1551

    锾荒み叟なき露の草の原 散り残る花もいくほどの世ぞ

    野上房忠(のがみ ふさただ)   ? ~1557

    生死を断じ去って 寂寞として声なし 法海锾??く 真如月明らかなり

    波多野秀尚(はたの ひでなお)  ? ~1579

    よはりける心の??に迷はねば いで物??せん後の世にこそ

    波多野秀治(はたの ひではる)  ? ~1579

    おふけなき空の?{みも尽きしかど いかで忘れん仇し人をば

    平?V???讪ひらつか ためひろ)   ? ~1600

    名のためにすつる命は惜しからじ つひにとまらぬうき世と思へば

    ?e所友之(べっしょ ともゆき) 1560~1580

    命をもおしまざりけり梓弓 すゑの世までも名の残れとて

    ?e所樘治(べっしょ ながはる) 1558~1580

    今はただ恨みもあらじ衷人の いのちに代はるわが身と思へば

    ?e所治忠(べっしょ はるただ)  ? ~1580

    君なくば?nき身の命何かせむ 残りて甲斐の有る世なりとも

    北条氏照(ほうじょう うじてる)   ? ~1590

    天地の清き中より生れ来て もとのすみかにかえるべらなり

    北条氏政(ほうじょう うじまさ) 1538~1590

    吹くとふく锾な恨みそ花の春 もみぢの残る秋あればこそ

    雨??のおほへる月も胸の炱も はらひにけりな秋のゆふかぜ

    我身いま消とやいかにおもふべき 空より来りくうに??れば

    ??川高国(ほそかわ たかくに) 1484~1531

    ※これは高国の残した辞世の句のうち、伊?莨?司北??晴具に??った句である。

    烬にうつし石を作りし海山を のちの世までも目かれずや??ん

    ※これは高国の残した辞世の句のうち、?源笏??g淳・三条西?g隆に??った句である。

    なしといひありと又いふことの叁や 法のまことの心なるらん

    前野樘康(まえの ながやす)    ? ~1595

    限りある身にぞあずさの弓??りて とどけ参らす前の山々

    松井康之(まつい やすゆき)  1550~1612

    やすく行道こそ道よ是やこの これそまことのみちに入けり

    三浦柳同(みうら よしあつ)    ? ~1516

    ??つ者も??たるる者も土器よ くだけて後はもとの?K(つちくれ)

    三浦柳意(みうら よしおき)    ? ~1516

    君が代は千代に八千代もよしやただ うつつのうちの?簸韦郡悉证?

    右田隆次(みぎた たかつぐ)    ? ~1551

    末の露本の膻に知るやいかに つひに咦れぬ世の??ひとは

    三原铰心(みはら じょうしん)   ? ~1586

    うつ太刀のかねのひ╃きは久かたの 天津空にも??えあぐべき

    ?m原景肺(みやはら かげたね)   ? ~1587

    逃るまじ?Iを兼て思い切れ ?rに至りて?訾筏?るべし

    ※これは?u津日新?趣胃瑜扦?るが、彼はこの歌を吟じた後?持肖??丐贽zみ??死したことから、辞世の句代わりとみなした。

    三好樘治(みよし ながはる)  1553~1577

    三好野の梢の雪と散る花を 樘治とやは人のいふらむ

    三好柳亵(みよし よしかた)  1527~1562

    草枯らす霜又今朝の日に消えて ?螭韦郅嗓辖Kにのがれず

    宗像氏??(むなかた うじさだ) 1545~1586

    人として名をかるばかり四十二年 消えてぞ??るもとの如くに

    毛利元就(もうり もとなり)  1497~1571

    ※これは元就の死に乓んで残した句ではないが、死の三月ほど前に吉田郡山城で??んだ句である。

    友を得て?qぞうれしき?@花 昨日にかはるけふの色香は

    ※これは元就の句ではないが、彼の死を悼んだ道澄法尤王の追悼の句である。

    をしむ夜の月は入ても??の山 ??よりたかき名やはかくるる

    山崎隆方(やまざき たかかた)  ? ~1555

    ありと??きなしと思うも迷いなり 迷いなければ悟りさえなき

    冷泉隆匚(れいぜい たかとよ) 1513~1551

    みよやたつ??も??も中空に さそひし锾のすえも残らず

    ※お市の方(おいちのかた)  ? ~1583

    さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の ?eれをさそふ郭公(ほととぎす)かな

    ※小野木重?偈舀おのぎしげかつしつ) ? ~1600

    ?B啼きて今ぞおもむく死出の山 轹ありとてもわれな咎めそ

    ※桂林院(武田?兕m室)(けいりんいん) 1564~1582

    ???の乱れたる世にはてしなき おもひに消ゆる露の玉の诀

    ※千 利休(せんの りきゅう) 1522~1591

    ひっさぐる我が得具足の一つ太刀 今此?rぞ天に抛つ

    ※?蒯蹲诰浓てっしゅう そうきゅう) 1480~1556

    ?????⒆妗∵[?锷裢ā∧┢谝痪洹∶突⑽杩?

    ※??川ガラシャ(ほそかわ がらしゃ) 1563~1600

    ちりぬべき?r知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ

    • 家园 Re:【文摘】日本战国武将的临终遗言――很有些禅味

      老兄所言是极。 说来一笑而已。 民族文化背景不同, 读到同样句子时当然感受有别。

      织田这几句是敦盛中的片断, 当非其自作, 不过确实很能表现当时他下决心孤注一掷的心情。

      之所以说这些家伙的辞世诗有拼凑之感, 是因为在我看这里有好些并没有很好地表达出他们当时的境遇和心态。 好比我能大概看到的这几个明智, 朝仓, 斋滕老哥几个儿, 明摆着性格, 环境, 志趣都不一样, 写出来都只是一派多少多少年如梦, 如露似电那, 这一套。 不可否认, 生在那么一个乱世, 那么小点地方, 绕着个琵琶湖打来打去的, 肯定有浮生如梦之感, 心里也不能特痛快, 可是也不能这么简化了嘛。

      相比之下, 感觉明智死前的这首不如他在爱宕山连歌会上的“雨欲来, 五月天”来得能说明问题, 本能寺之前的那种气氛由这一句就烘托出来, 据说还间接着拿日语里的谐音表达了他将一争天下的决心。

      日本人在作徘句之外, 也同样会作汉诗的, 字数啥的倒是差不离, 只是不知道, 他们的格律是不是按照中文的革律来规划的, 这玩意儿, 毕竟读音差着八丈远呢。 有一些日本人也是会去深入体会汉诗的意境和内涵的。 记得说有回织田瞅着稻叶一铁不顺眼, 准备召他来要了这老家伙的命。 老家伙也不是盖的, 一进门感觉气氛不对, 又没找见织田, 瞅见堂里挂着首韩愈的诗, 赶紧过去瓜瓜开念, “云横秦岭家何在, 雪拥蓝关马不前”, 据说念得慷慨激昂, 铿锵有力, 而且老泪纵横, 日本人房子也小, 还不隔音, 另一屋里的织田听着听着也给感动了, 心想老人家是忠臣啊, 平时没看出来, 得, 放了他罢。 要说稻叶确实是挺机灵, 美浓三人众没白当,靠这个捡条老命。 可也得算上平时他没少读汉诗这一功啊, 要不, 换个傻点儿的, 谁知道退之这两句是用来表忠心的啊, 或者, 织田真是尾张大傻的话, 也听不出这里面的道道来, 那也是一样白费。

      所以, 呼吁一衣带水的日本人民, 多学汉诗。

      • 家园 呵呵,有兴趣的话进来看看这个,日语版的水调歌头

        水整歌钷(训读)

        明月 ???rよりか有る

        酒を把りて 青天に??う

        知らず 天上の?m晟

        今夕は これ何の年ぞ

        我、锾に?りて ??りゆかんと欲す

        またおそる ??楼 玉宇

        高きところ 寒にたえざらんことを

        たって舞い、清き影とたわむる

        人殓にあるにいずれぞ

        朱轺に??じ

        具?酩摔郡?

        ?o眠を照らす

        まさに恨み有るべからざるに

        何事ぞ とこしえに?e?rに向かってまどかなる

        人に悲?Z 滕合あり

        月に??晴 ?胰堡?り

        この事 いにしえより全くなり膣し

        ただ??わくば、人の樘久に

        千里?染辘蚬菠摔护螭长趣?

        水整歌钷(现代语读)

        明月よ、おまえはいつから

        あるものか?

        酒をとり、

        天に??うてはみたものの

        はるけき

        天上世界のことは

        今宵の?筏工?

        わからない

        ならばせめて锾に?た

        天の上まで舞い上がり

        催かめようと思えども

        高きところの寒さには

        耐えるすべさえ

        持ち得ぬ我が身のはかなさよ

        そこで私は独り舞い、

        影とたわむれてみたものの

        天上世界のありさまに

        とてもかなうものではありえない

        ああ月よ

        樵をぬけ

        薄きあやぎぬの

        とばりをくぐり

        眠れぬ私を

        照らし出す

        おまえには、

        恨みの?莩证沥悉?るまいに

        ?eれ?eれのこの?rに

        ?氦沥扑饯???ませる

        人には

        ?eれと出会いが有り

        月には

        「?氦痢工取盖筏薄工?有る

        古来よりこの二つながらのことわりは

        何人たりとも逃れえぬ

        ならばせめて お互いに

        体をいたわりこの月を

        千里滕れた?鏊?からも

        心を一つに?Sしもう!!

    • 家园 Re:【文摘】日本战国武将的临终遗言――很有些禅味

      馋味倒也算有些, 只是感觉上倭贼净整些拼凑的东西, 光注重老虎嗅玫瑰的形式了,有点千篇一律, 怎比得三国演义里我上国大将太史子义牺牲前大呼的“大丈夫生于乱世, 当带三尺剑立不世之功”来得直接, 痛快呢。又或可及大宋宗大帅的三呼“过河”那般令英雄扼腕泪下呢。

      想想倭奴丰臣那首“人生如露水般来露水般去”, 真不知道是说他与俺上国魏武皇帝英雄所见略同好呢, 还是说他抄袭剽窃好, 怪不得临到要如“露水般去”的时候才敢吟诵出来。

      谈到禅意, 后来西南战争里桐野利秋这个粗人说的“一支青竹便可压倒熊本城”倒也算是“禅”得紧了罢, 只可惜这些豪气干云的“士”们,终是敌不得平民百姓征来的镇台兵。 倒不曾听说这些足轻们写个啥句亚, 啥和歌的, 扯远了。

      • 家园 如果对于宗泽当时的背景不了解,那三声“过河”也不容易理解罢

        中国人对于宗泽那段历史是了然于胸的,在这样的背景和文化熏陶下,自然能够理解那三声过河所蕴含的激情和悲愤,假设是个对中国历史文化知之甚少的外国人呢?恐怕就觉得一头雾水了吧。

        日本的悱句字数较唐诗宋词而言要少的多,往往只有一句话,而且其中也有不少限制条件,比如一定要有表示时令节气的词等等,这样的条件下表达能力肯定要弱于诗词,而且由于文化背景不同,日本人能够读懂的蕴意中国人未必能懂,就象日本人也未必懂唐诗宋词的底蕴。

        不过如果了解这些人说话的背景,应该能从这些遗言中管窥他们当时的内心世界罢,就拿织田信长的那句名言来看,直到桶狭间合战的过程,应该能体会到织田当时的决心吧。

        桶狭间合战(1560年)

          今川家,家督今川义元,控制骏河、三河、远江三国,东与北条家结盟。他更占地利之便,接近京都,有西上匡佐皇室,称霸诸候的条件,连越后的上杉谦信和甲斐的武田信玄都没有他这么幸运。

          1560年,今川义元发动骏河、三河、远江三国四万五千大军西上,亲直攻打西上京都的必经之地,织田信长的尾张国。

          5月18日,今川军前锋直指鸣海城。19日,今川军松平元康攻落丸根城,同时今川前锋也攻落鹫津城。今川军连克两城,士气大振,于是进据到田乐狭间,在山谷中按营扎寨。

          织田信长接到情报后,连夜与群臣在清洲城内商议。家臣们认为敌众达五万,自军只有三千,宜避其锋锐,坚守清洲城。信长不语,退席,家臣们只好散会。

          天以将白,信长这时起舞并唱道:

          [GLOW=255,RED,2]人生五十载,

          去事恍如梦幻,

          天下之内,

          岂有长生不灭者![/GLOW]

          唱罢,信长披甲上马,单骑驰出,他的从将十余人也跟着他去。信长一马当先,边走边有将兵加入。到了今川军前锋附近时,织田军已有千余骑。今川军前锋正在大举攻打信长的属城,部将劝信长不要去救,以寡敌众。信长当然不会这么傻,他知今川军乘胜而骄,必不防劫营。于是,信长引军沿山路静悄悄地绕过今川军前锋,直扑田乐狭间。

          此时,天空一片昏暗,雷雨交加,信长提枪拍马,引军冲入今川大营。今川军登时大乱。今川义元正在营帐内饮酒作乐,等侯前锋的捷报,突然织田军几将杀到,被织田信长的近将毛利秀高一枪刺死。今川军见主将已死,便四散逃跑了。

          桶狭间一役后,信长的声誉鹊起,威震四邻。原属今川的松平元康改姓名为德川家康,重得父亲领地三河,并与信长结盟,替信长把守东面的门户。

    • 家园 这是武士道的传统

      表示他们面对死亡还是能够镇定地做诗,不怕死,因为是传统,所以大家都这样作。不过不能排除其中一些人是事先做好,以防万一的。

    • 家园 机会真是超懒惰,全部日文不坑人嘛。
      • 家园 全部翻出来不是要了我的老命么,何况我翻的也没有那个味道

        感兴趣的就自己找找中文的翻译好了,几个比较有名的网上应该都有,比如织田信长,武田信玄,上杉谦信、毛利元就、明智光秀等等。

        这些东西,乍一看还有些味道,看多了就发现很空洞,没有回味的余地,比中国的诗歌差远了。

        • 家园 同感

          1)文字的东西,翻译过来就没味道了,除非是对于两国的文字都有很深的造诣

          2)有点空洞了哦。

          BTW:虽然我不是很喜欢日本的东西,但是就这个民族的那种苍伤的感觉还是和欣赏地!!!

          • 同感
            家园 一个小建议。

            的确,这个东西不好翻,兄弟试了一下,最终决定放手。就像中国的诗词一样,那种意境,翻译到信达雅的境界的确不容易,不过机会也有些偷懒,有些句子,写成汉字的大家就好理解,而写成假名,大家看上去就有些乖乖龙的东了。比如足利柳蔌的遗言,つゆ:梅雨、なみだ:?妗?わが:我、あげ:上げまで:迄,建议换成汉字就更有味道一些,您看如何?

            • 家园 嗬嗬,翻成汉字恐怕味道就变了

              其实这些东西也挺直白的,比如足利义辉的那句,翻过来就是“当五月的梅雨如泪珠般从天而降之际,鸟儿啊!请将我之名传于白云之端吧!”

              读起来什么感觉都没有,只有真正感受到日本的五月时分的梅雨,才会体会到这句话背后蕴含的无奈和悲凉。

              日本人的性格既细腻又偏执,读他们写的东西还真得费点心思,一个字“累”

    • 家园 最喜欢上杉谦信这一句

      [GLOW=255,RED,2]四十九年荣华梦,一期荣华一杯酒,四十九年梦中醉,一生荣耀一杯酒。[/GLOW]

      上杉谦信也是战国时的怪人,不过武力超群,和武田信玄龙争虎斗,也是日本战国不世出的英杰。

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