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主题:【原创】士兵证言:敌伏民中无影踪 华北扫荡游击队之战 上 -- flyingcatgm

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家园 日文原文

 暴力と恐怖によって支配を受け入れさせようとした日本軍、しかし、そのことが日本軍から住民を離反させていきました。

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「私に言わせるとね、どう思われますか、侵攻作戦で親や兄弟が殺されて家を焼かれて、ね、いいですか?八路軍はそれを利用して、民心を得ようと「日本軍が悪い」とやっている、日本軍は「そうじゃない」と「みんなのためにやっているんだ」といって、マッチとかちょっとした餌を与えてやってみても、親や兄弟が殺されたら恨み骨髄(こつずい)でそんなものは宣撫(せんぶ)工作や「お前たちあ、そこへ行け」と言ったって聞きますか?そこにわたし、作戦の間違いがあったと思う、いや、私の判断ですよ。」

 大きな成果がないまま長期化していく日中戦争、伊藤利春(としはる)さんは日本軍が禁じていら行為が八路軍の捕虜に行われるのを目(ま)の当たりにしました。

 (伊藤利春)「やっぱり捕虜になったらも、取調べするけど、その間には拷問(ごうもん)もあるし、拷問かけると生かしておくわけにはいかないから、殺してしまうと言うことですよね、生かしておくと後日(ごじつ)の災いになるから口封じにすると、そういうことはやっぱり(掃討作戦の)前線では裁判や憲兵隊に送ることができんから、前線のその部隊で処置しようと言うことじゃないかと思いますけどね、」

 (元歩兵中隊 中隊長 勝浦良夫)「負傷者がもうあかんというのがね、30人ぐらいいただろうね、これを初年兵に突(つ)かすんだ、バーっと行ってね、訓練の一つで、そういうこともしたことありますな。もう思わんいろんなことが起きてくる。」

 昭和16年12月、中国大陸で続く治安戦に大きな変化をもたらす事態が起こります。太平洋戦争が開戦したのです、華北地方は連合国との戦いを支える食料や資源の兵站基地とされます。日本軍の総力を結集(けっしゅう)したゲリラ掃討作戦が発令されました。昭和17年5月、163連隊も部隊創設以来、最大規模の戦闘を行います。163連隊の指揮下に入った岡山県の110連隊の報告書、兵士と住民を合わせた中国側の死者は300名に上ったと記されています。戦場となった華北平原北部の北担村、163連隊は情報活動を通じてこの村に、大規模な八路軍が集結しているという情報を得ます。昭和17年5月26日の夜、163連隊を中心とする討伐(とうばつ)隊は北担村へ向けて出発しました。夜明け前に北担村を包囲、激しい銃撃戦が始まります。

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「その作戦では、ものすごく抵抗しても、近(ちか)寄れない状態でした。こういう作戦は平地の作戦ではめったにないんだと、敵がこんな長い時間抵抗するのはということだったんですけど、もう、普通夜明けからかかって、昼もどうにもならんと膠着(こうちゃく)状態で、晩になって日が暮れてしまうんだから、なんとしても突撃でもしてでも、今日の作戦を解決しなきゃいけないと言うことで、晩になってから突撃する格好になったんですが、」

 夕暮れ(ゆうぐれ)が迫る中、兵士たちは北担村の中心部に向かって一斉に突入しました。しかし、そこで思わぬ光景に遭遇します。

 (伊東利春)(突撃してみたら、ひとつきりも人影(ひとかげ)が見えないのです。あれだけ抵抗して一日撃ち合いしたのに、どこ行ってしまったんだろうと言うことで、当初からの情報で地下壕があるみたいだと言う情報があったんで、地下にもぐっているんじゃないかと言うことで、地下壕の入り口をそれから探した。徹底的探したわけです。)

 日本軍が突入する直前、八路軍と住民は地下壕に逃げ込んでいました。隣の集落まで続く地下壕を使い、ひそかに脱出しようとしたのです。

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「要するに、下に穴を掘っているんだ。ずーっと、蜂の巣みたいに。蜂の巣じゃない、あれはモグラじゃな、モグラがおりましょう。あれみたいに、泥の中をあっちこっち穴掘って、掘って、下を通じよるんだから。もうそこから先は、私はもうよう言いません。」

 (元110連隊 小隊長 小坂庄介さん(90))「おかしいなということになって、壕を掘って逃げとんでちゃってとわかって、その間に、「赤筒」というくしゃみが出るガスが穴とおぼしきものに放り(ほうり)こんで、」

 日本軍の報告書に記された「小あ筒」という文字、毒ガス兵器、赤筒のことです。日本軍は北担村のいたるところにあった地下壕の入り口に赤筒を投げ入れ、八路軍や住民を燻り(いぶり)出そうとしたのです。吐き気やくしゃみを引き起こす赤筒は戦場で敵の戦意を奪うために使われるもので、通常は死をもたらすことはありません。しかし、赤筒から発生するジフェニルシアノアルシンというガスは大量に吸うと、呼吸困難を引き起こします。地下壕など閉鎖空間で使うと、死に至る可能性があります。

 (元歩兵 来海 忠満さん(93))「敵の抵抗が厳しかったときにはそれを使ったけど、そういうことは常に持っていました。竹の筒(つつ)、こういうものです。軽いものです。で、ほかの小隊にあったかもしれないけど、私たちははじめから終わりまで同じものを持ってましたな。竹の筒、このぐらいでね。このぐらいのものです。」

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「兵隊はご苦労ですけどもね、ずのうがありましょう、袋が、これをかけとる、食料はね、三日分、手榴弾は腰に2発、赤筒を持っておる。えんび(シャベル)はもっておる。偽装網(ぎそうもう)はもっておる。それで、弾薬は120発。これはもう、どんなときも励行しました。」

 当時ヨーロッパなどの国々は毒ガス兵器の使用を禁ずるジュネーブ議定書の締約国となっていました。しかし、日本は批准(ひじゅん)していませんでした。

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「まあ、毒ガスというのは、世界中の協定でガスは使わないと言うことになっとるんですね、でも、そんな協定はあるらしく思っていた。別に聞いたわけじゃないけど、だって、なんでガスを持っているんだろう、持たせるんだろうなと、それは護身用(ごしんよう)だと使う場合は、もう包囲されたとか何かいっても、自分たちの生死にかかわると、最悪(さいあく)の場合、風を利用して、風下に敵がいる場合、風上に回るとそれを使われると、そして逃げてかえって来いと、くると、いうことのために、それをもっているんだということですけど。」

 小隊長を務めていた小坂庄介さんは赤筒のガスを吸い込んだ人たちが這い上がってくる様子を目撃しました。

 (元110連隊 小隊長 小坂庄介さん(90))「一番ね、女や子供が泣きながら、涙を流して出てきて、くしゃみ、涙、ものもよく言えない状態、涙が出て、くしゃみして涙が出てですね、日本軍はガスによって、死ぬようなことは考えてなかったです。」

 しかし、北担村では赤筒は本来の目的を超えて使用されました。兵士たちは人々が逃げ込んだ地下壕の入り口を探し出しては次々と赤筒を投げ入れたのです。

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「私らもやった。やったけどの、この土の下、ずっと通路になっているから、穴を掘って、それをやつら、穴からワーワーするものだから、赤筒を放り込むでしょ。赤筒と言うのはガスだからな、そうすれば、まあ、(地下から)ドカドカドカドカ」

 「坑道内は手榴弾の爆音、阿鼻叫喚(あびきょうかん)その極みに達す」(歩兵110連隊の報告書)。討伐部隊が赤筒を投げ入れた後、地下からは手榴弾の爆発音と絶叫(ぜっきょう)が響き渡ったとあります。

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「音がしたよ、それは放り込んだからでしょう。放り込んだから、穴の中で自爆したんです。手榴弾で」

 討伐隊の掃蕩はさらに続きました。地下壕の出入り口が待ち構え、毒ガスから逃れてきた八路軍の兵士を刺し殺したのです。掃蕩は翌日まで及びました。

 (元歩兵 山本実 さん)「えげつない事だなと思いましたね。何も知らない新兵(しんぺい)が駆り(かり)出されてる。(上官が)「戦闘はお前らまだやったことないから、逃げ口をお前見張って、それをいちいち刺し殺せ」という。まあ、そんなことできなかったですよ。」

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「すごいことをやるなと思いましたよ。私らも、戦争と言うものはこんなことまでするのかと思った。」

 163連隊の部隊史には北担村の戦闘を指揮した隊長の回想が記録されています。しかし、そこでは赤筒と言う言葉は記されていません。「数箇所の出入り口を発見し、通訳を通じて降伏を勧告したが応じない、日没も短い、やむを得ず発煙筒の投入を下命(かめい)した。」

 日本軍の報告書によれば、八路軍側の死者は300名と記録されています。しかし、中国側では死者の数を500名から800名にしています。正確な数は現在もわかっていません。

 北担村の戦闘の後、太平洋戦争の状況は一変します。強大な連合軍を前に、太平洋の島々で敗北を重ねる日本軍、やがて、中国大陸の日本軍兵力はその多くが南方の戦場へ転用されていきました。華北の治安確立と言う163連隊の目的も急速に悪化する戦況の中で放棄されました。163連隊はまったく経験したことのない新たな戦場に動員されます。それは部隊と部隊がぶつかりあう最前線の戦いでした。

 昭和20年、平尾克己(かつみ)さんは中隊長として揚子江の北部老河口(ろうかこう)で行われた戦闘の指揮を取りました。このとき、平尾克己を待ち構えていたのはアメリカから武器、弾薬の援助を受けて、戦力を増した中国国民党の軍隊でした。火力に勝る中国軍の猛攻を受けた163連隊は壊滅状態に陥ります。

 (元 機関銃中隊 中隊長 平尾克己さん(91))「「もうこれからは弾は一切補給せん」とそういう余裕がないわけですから、「もう弾がない」といっても、兵器も壊れても、ない、「とにかく今持っている兵器と弾で防げ」と

 食糧もほとんどそのごろからなかったですからね、食料の補充もできぬ、昭和20年の7月から8月、玉砕、連隊長もそう思っていた。みんなが、ともかくここはもうどうしようもない。弾も何もない。だけど、「守っとれ」というようなことでね、あの、終戦を迎えたわけです。」

 昭和20年8月17日、師団からの停戦命令を受け、163連隊の日中戦争は終わりました。

 (元歩兵 門脇志郎さん(94))「兵隊と言うものは道具みたいなものです。自分の考えと言うものはないわけで、考えがあったって、そんなものは無視されてしまって、ただ、駒(こま)のようなものだね。」

 (元歩兵 山本実さん(95))「いまだったら、よくあんなことをしたと、戦争は憎い、そのときはわかりませんもん、私らでも、戦争ってこんなにむなしいものでね、哀れな、死人(しにん)はたくさん出てくる。なんのために、あの、向こうの大陸をね、(銃を)担い(にない)で」

 (元110連隊歩兵 大島輝夫さん(92))「もう軍隊のことは覚えてない、帰る事ばかり考えていた。」

 (元 伍長 伊東利春さん(90))「中国はあのひどい国土を何年間も荒らされたんだから、もう、中国のあれはほんとう、気の毒なことをしたな、かわいそうなことだなと思う。軍隊にいる兵隊も好んで出たわけではないが、軍人は仕方がないわ。日本の兵隊も一緒だから、出た以上は仕方がないけど、住民は大変だろうと思ってますね。」

 (元163連隊副官 元少佐 木村喜義さん(99))「(華北の日本軍)24万の軍隊が終戦まで釘付けになったでしょう。何も効果なし、まあ、すこしがあったろう、治安はひとつもよくならない。どんどんどんどんとも民心を集団して、共産党が日本が進駐軍が行った後、共産党軍がどんどんどんどん地盤(じばん)を作っただけ。」

 広大な中国大陸の治安維持のために編成された163連隊の兵士たち、その戦歴のすべてを中国大陸で重ねました。命を落としたのは1412名、その半数は八路軍と戦った治安戦によるものです。

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